「ビルバオ − ニューヨーク − ビルバオ」(キルメン・ウリベ)


図書館にて借出し:


ビルバオ-ニューヨーク-ビルバオ (エクス・リブリス)

ビルバオ-ニューヨーク-ビルバオ (エクス・リブリス)

 魚と樹は似ている。
 どちらも輪を持っている。樹の持つ輪は幹の中にできる。(略)魚も輪を持っているが、それは鱗にある。樹と同じように、それを数えることで魚が何年生きたかがわかるのだ。
 魚は常に成長し続ける。僕らは違う、僕らは成長してから小さくなっていく。僕らの成長は止まり、骨は繋がり始める。身体は縮んでいく。けれども、魚は死ぬまで成長し続ける。幼い頃は急速に、歳を経るごとにだんだんゆっくりと、だが成長が止まることはない。だから鱗に輪ができるのだ。(P.7)


こんな魅力的な書き出しに、一気に引き寄せられるように読みました。
バスク地方に生まれ、漁師を父に持った作者=主人公が多彩なエピソードを織り込みながら語るバスクの、そして家族の歴史。輪が段々と広がっていくように、様々な要素を結びつけながらも決して単なる小咄の羅列に終わらせないのは、やはり詩人の想像力のなせる技でしょう。長年政治的弾圧を受け、そのままでは失われてしまったであろうバスクという特異な文化や言葉を守ってきた人々の密かな誇り高さを感じさせます。

 僕は父にペンを渡して、オンダロアからロッコール島までの航路を正確になぞってほしいと頼んだ。(略)
 緊張ぎみに線を引いていく父の手を見つめているとき、僕は奇妙な感覚に襲われた。父がボールペンで描いたその線は、その地図帳に永遠に残ることになるだろうと気づいたのだ。
 だが、それと同時に、何かが僕に向かって、父はそうしていつまでも存在し続けるわけではないのだと告げていた。本に描かれた線はいつまでも残るだろう。だが父は違う。そのとき、僕は身の震えを、父を失うことの恐怖を感じた。 
 船長は、航海図をけっして人に見せず、港に着くと束ねて家に持ち帰る。
 死もまた、その航海図をけっして見せることがない。(P.41)


バスクには個人的にも思い入れがあるけれど、それを抜きにしても美しく、素晴らしい作品だと思います。
バスク語からの直訳、という事実にも素直に感嘆しました。伝えたい、という思いがきちんとあれば、離れた地にいる私たちでもいつかは繋がっていけるんだなあ…と改めて言葉の持つ力を実感してみたり。


 
バスクの海は本当に美しくて、海岸からふっと海の中を覗くとこんな風に魚が泳いでいたり。