「週末」(ベルンハルト・シュリンク)


図書館にて借出し:


週末 (新潮クレスト・ブックス)

週末 (新潮クレスト・ブックス)

「左翼のプロジェクトというのはまず、人々が国家の暴力にあらがうことであり、
国家の暴力によって壊されてしまう代わりに暴力を打ち破ることだ。俺たちは
ハンガーストライキや自殺でそれを示そうとした……」
「それから、殺人でね」(P.151)


恩赦により20年ぶりに出所した、老いた元赤軍テロリスト。母親代わりに彼を慈しんでいた
姉は、郊外の一軒家に昔の友人たちを集めて週末を共に祝おうと計画するのだが…。


読んでいて絶えず思い出されたのは、やはりこの映画↓でした:


バーダー・マインホフ 理想の果てに [DVD]

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赤軍、といっても私には今まではどうもピンと来ない存在でしたが、この映画では、
当初は高い志を持ち、あくまで国家に抵抗するために行使していた暴力が、知らず知らずの
うちに暴力のための暴力に置き換わってしまう、そんな経緯が説得力を持って描かれており、
どうしてそんな無謀なことが?という疑問に対する一つの答えを指し示された気がしました。


史実を元にしたこの映画の中では、主要人物は最後にほとんど死んでしまうわけですが
もし生きながらえて、いま目の前に現れたらどうするだろう?一体何を問いかけるだろう?
(実際ドイツでは恩赦で当時のテロリストが2008年に釈放された例がある)


集められた友人たちは、当時は時代の流れもあって左翼的な思想に共鳴はしていたものの、
主人公のようにテロといった極端な行為に走るには至らず、今ではそこそこの社会的地位の
良き市民となっている。そんな彼らにとって、主人公の存在は忌まわしい過去?大いなる謎?
彼らもまた、若き日の自分を思い出して煩悶します。
さらに主人公を新たな政治的道具として利用しようとする者や、思わぬ来客も現れて…。


登場人物がそれぞれの思索を巡らせる、一種演劇的というか人工的な空間で進行する物語。
常に真摯なシュリンクならではの作品と言えます。1944年生まれの作者にとってナチス
『親の世代が犯した犯罪を子供はどう裁くべきか」という問題でしたが、赤軍テロは正に
彼の世代の問題。作者自身はあまり深く関わらなかったと言うことですが、それでも色々
思うところはあるでしょう。それは例えば、ある作中人物のこんな発言にも:

「あんたたちは自分の両親の世代を殺人者の世代と呼んで腹を立てたけれど、あんたたちも
まったく同じになってるじゃないか。殺人者の子どもであるということがどういうことか、
わかっていてもよさそうなものなのに。(P.168)」

複数の人物の心理状態が入れ替り描写される構成に、彼なりの複雑な思いがこめられているようです。
終わり方がちょっと予定調和的ですが、それも含めて室内劇が似合いそうな、色々と考えさせられる
作品でした。



再会の時 CE [DVD]

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大学時代の旧友が一堂に集うという構成に↑を思い出した人も多いはず。抱えている過去の重さは
シュリンク作品の方が断然上ではありますが…。(こういうの他にもあった気がするけど今思い出せない)



死と生きる―獄中哲学対話

死と生きる―獄中哲学対話

ちょっとテーマが違いますが、私は↑も連想しました。殺人を起こした死刑囚の心理に、哲学者として激しく
詰め寄る池田晶子。二人とも、今はもう故人です…。