「雪の練習生」(多和田葉子)


図書館で借出し:


雪の練習生

雪の練習生


ドイツつながりということで色々読んでいる割には、実は個人的に案外苦手な作家だったりするのですが、
今回のテーマがシロクマのクヌート!と聞いたなら読まずにはおられません…と図書館にリクエストをかけた
当時はまさかこんなこと↓になるとは思ってもみませんでした(涙):


●『「クヌート」脳、脊髄がウイルス感染 急死の人気者』(MSN産経ニュース)


震災の影響で日本のマスコミではほとんど目立った報道はされず、今でも知らない人が結構多いようです。
まあ日本ではもともと「欧州でなんだか話題になってるクマ」くらいの印象しかないのかもしれません。
でも当時のクヌート・フィーバーを知ってる身としては何とも切ない気持ちになってしまいます。


本の話に戻って。
全3章の構成内容は、クヌートの祖母に当たる雌熊、母親のトスカ、そしてクヌートがそれぞれ中心となっています。


最初の章の語り口にまず驚きました。出だしの部分、この「わたし」ってどう考えてもクマだよな…と思って読んでいると、
急にホテルで何か書き始めたり国際会議で挙手してがんがん発言したり、あれ?人間?と思ってもやっぱりクマじゃないと
話が通じない部分も多く、最初は混乱しました。
いわゆる一般的な擬人法とは違い、書かれる主体(クマ)と書く主体(著者=ヒト)が融合して独特の自我が立ち上がって
くる、そんな不思議な感覚にたっぷり酔いしれました。


こんな妙な感覚、他でもなかったかな?とジーッと考えたらふと思い当たりました。「猫村さん」だ!


きょうの猫村さん 5

きょうの猫村さん 5


ネコなのにおばちゃん家政婦でもある猫村さん。人間の家で料理や買物といった家事をテキパキこなしながらも、ムカつくと
夜中に爪とぎをして憂さをはらすというネコらしさも失わない矛盾した設定、かなり近いと思います。
(そう思いつくと、そのあと読んで思い浮かべる情景がどんどん「猫村さん」風に変換されて笑いが止まらなくなってしまった)


ただし猫村さんはあくまで家政婦さんで(マガジンハウスに勤めたりもするけど)、自分でマンガは書かない。
一方こちらのクマさんは自分の自伝を書こうと思い立ち、異国の地でなんとか文章をまとめようと四苦八苦する。
ここにやはり現在ベルリン在住である著者の体験や心境が色濃く投影されていると思われます。例えばこんな文章:

「書くという行為は冬眠と似ていて、端から見るとウトウトしているように見えるかもしれないけれど、
実際は穴の中で記憶を生み育てているのだ。」(P.19)


こういった一種独特な感覚の比喩は、正に著者ならではという気がします。


次の母熊トスカの章は調教師ウルズラの視点から書かれているので描写としてはごく普通かな、と思ったら実は
ちょっとした仕掛けがあって、あ、やられたと思ってしまいました。


最後のクヌートの章は(成長するにつれ三人称が一人称に代わるといった変化はあるけれど)分かりやすい語り。
その分、飼育員さん(作中の名前はマティアス)とあともう一人の人物(この人もベルリンには色々縁があった)の死が
(読む側には初めからその死が分かっているだけに一層)全編に暗い影を投げかけています。まるで今回の悲しい結末を
予言していたかのようで、やるせない気持ちにさせられます。


自分のクヌートへの個人的思い入れは抜きとしても、非常に読み応えのある作品でした。著者への苦手意識もこれで
大分払拭できそうなので、改めて色々読み返してみようと思っています。