「神学部とは何か」(佐藤優)


図書館にて借出し:


神学部とは何か (シリーズ神学への船出)

神学部とは何か (シリーズ神学への船出)


うーん深い。深すぎますよ佐藤さん…。
「役に立たないから役に立つ」とか「負けたから勝ち」とか、一見矛盾した言説をグルッと裏返して正当化してしまう
佐藤氏の思考の基が垣間見えました。宗教に関してはあんまり下手な事を述べたくないので以下幾つか気になった箇所を
自分用にメモ:

普通、学問的議論においては、意見が分かれていざ論争になると、論理的整合性が高い順、すなわち論理的に正しい側の
言説が支持され、論争に勝つのだが、神学の場合はそうではない。過去の例から見ると、むしろ論理的整合性が高い側が
負ける傾向が強い。そして議論に負けた側は異端という烙印を押されて、運がよい場合でも排除され、運が悪ければ皆殺しに
される。読者はこのことを不思議に思うだろう。
 実はこのような流れが神学論争においてはちょうどいいのだ。
 神学以外の論争においても、そもそも現実に大きな影響を与える性格を帯びている場合、論争の最終局面になると政治権力が
入ってきて暴力的になり、権力がぎゅっと押さえつける感じになる。勝った方は、自分たちにやましいところがあるので
後ろめたい気持ちになり、「理論的にはこっちの方が弱かったのではないか。あれで勝ってしまってよかったのか」という
気持ちになる。負けた方は、「政治的には弱いし、人数はすくないけれども、自分たちの方が絶対に正しかったという確信を持つ」。
(P.19-20)

ここで言う神学を哲学に置き換えることはできない。というのも、哲学には啓示がないからだ。哲学は、人間の内側にある
理性において論理展開する。それに対して神学の「本当の智慧」(フォクマト)は外側からもたらされるのである。この
意味において、神学は哲学から最も遠い学である。神学は哲学的な推論の仕方を道具として使うことはできる。しかし
神学の出発点に哲学を置くことはできない。「哲学は神学の婢」という格言のように、哲学は神学にとっての補助学なのである。
(P.64-65)

私は、ここで述べていることを含め、自分の良心に照らして私自身が「正しい」と思っていることを述べているつもりである。
しかしこれは、他の人にとって「正しい」ということではないのかもしれない。世界には、「絶対に正しい」ということは
存在するはずだ。しかし「絶対に正しい」ことは人間の側から見る限り、複数存在する。「絶対に正しい」ことが複数あることに
耐えていく力が求められる。人間には、絶対に「正しい」ことは一つであると信じたい傾向があるからである。しかし、その
限界を克服しなければならない。そうしないと、平和な形で人間が共存し、生き残っていくことができなくなるからだ。
その点を乗り越えていかなければならないのが信仰だと思う。「私の良心」と「他者の良心」は違うかもしれない。しかし、
「それぞれの良心」に従って動いている人の言動や行動というのは、どこかで共通しているものがあると思う。それは言葉では
簡単に表せない。(P.137-138)

私は外交官になってからも神学書をいつも手元に置いておいた。そして聖書を毎晩読むという生活様式がずっと続いている。
それは、神学的思考が今やっている仕事とは直接にはつながらないゆえに、常識では見えなくなっていることに気づき、
それによって仕事の役に立つという弁証法があるからだ。(P.173)


文章はとても読みやすく、これこそ「はじめての宗教論 中巻」として新書で出してほしかったくらい。なんとも興味深い一冊。