「サイエンス・カフェ:人文学版<外国文学研究者はいま何を考えているのか – 文学の拡散状況の中で>」


青山ブックセンターにて1月20日(日)開催(詳細)。
●出演:野崎歓小野正嗣、田尻芳樹、山田広昭


4時過ぎまで長引いたこの催し、全体を再現するのは私の力では不可能なので
自分の関心を引いた部分のみまとめてみました:


「事前に質問事項をメールで提出」という要請があったためか、定員50名に対し実際の参加者は約半数。
後半はディスカッションになりそうだし、どういう展開になるかとちょっと緊張して入場。


全体の進行役は山田氏。
表題冒頭に掲げられた「サイエンス・カフェ」とは、フランスの「哲学カフェ」の流れを受けついだ、
アカデミズム側と一般市民側の垣根を取り払ってお茶でも飲みながらざっくばらんに意見交換しましょう、
という場のこと。サイエンスと言うだけあって通常は技術的なテーマを取り上げることが多い。


しかしなんで今回文学なのにサイエンスかというと、日本学術振興会から科学研究費が出てるプロジェクトの一環だからだとか。
そう言われれば文学だって立派に人文科学なのだが、自然科学やさらには社会科学と比べても、この分野で
研究費を確保するのは大変のようで、この辺から「愚痴にならないように気をつけますけど…」と言いつつ
大学の文学部がおかれている厳しい立場がにじむ発言が増えてくる。


次の野崎氏の発言に他の方も同意を示していたが、90年代半ばくらいから文学部を巡る雰囲気が大きく変わってきたという。
教師の活動の自由度が狭まり、なんらかの実績が求められるようになる。学部自体が縮小・廃止、あるいは教師の人員数が減らされる、
等々。


その説明をするにあたり小野氏をはじめ各人が挙げていた参考書が柄谷行人日本近代文学の起源」と「近代文学の終わり」。
近代(日本なら明治時代)、国家が成立して間もないころは「国民」を立ち上げて束ねるための国家装置として
文学がその一端を担っていた。しかし既に国家が自明のものとして成立している現代に、もはや文学の居場所はない…。


日本近代文学の起源 (講談社文芸文庫)

日本近代文学の起源 (講談社文芸文庫)


近代文学の終り―柄谷行人の現在

近代文学の終り―柄谷行人の現在



言葉の端々から、新たな立ち位置を模索している研究者の戸惑いが窺える。一番年少で自らも作家である小野氏は
やんちゃな弟分という感じで、一歩離れたところから面白がっていられる余裕があるが、後の3人はある意味純粋な外国文学研究者だから、
何らかの論理的な位置づけが対外的にも(そして自分の中でも)必要になっているのだろう。
この催しも、その答えを出すきっかけを掴むために設けられたのかな?という気がしてきた。


4人の中で唯一の英文学者として出席されたのが田尻氏(残りは仏文学者)。一見気難しそうに思えたのだが、
話し始めるとざっくばらんで非常に明快、英語読みの贔屓かもしれないが個人的には今回この方の話が一番印象に残った。


その田尻氏が語るには、他言語学科の窮状と比べて英文科はまだ恵まれている、何故なら「英文学」に需要がなくても
「英語」は常に求められているから。実際いま受け持っている授業のコマのうち半数は全く文学と関係ない現代英語を扱っている。
世間的にも自分の職業を説明するとき「英文学者です」より「英語教師です」と言った方が通りが良い(ここで山田氏から
「仏語の場合はフランス語教師なんて言ったら全く役立たずの職業だと思われるから、まだ仏文学者のほうが良い」との発言が。
この辺り英語の特異性を如実に示す比較となっていて面白い)。しかしその英語の授業の準備にかける時間も半端ではないし、
実利重視の傾向に乗っかることに文学者として不純さも感じる…と率直に発言されていた。


実はこの発言は後半の質疑応答で述べられたものなのだが、そこまでの経緯も面白かった。
いかにも文学好きばかりの参加者の中で一人異彩を放っている男性、その方は普段文学なんて読まない保険会社の
マーケティング担当者で、今回参加したのも冒頭の「サイエンス」の部分に興味を持ったからだという。
そんな彼の質問は「文学者として『これだけは言っちゃいけない』と銘じていることは何ですか?」という一風変わったものだった。


彼に言わせれば、昨今「理系の学問は役に立つ、文系は役に立たない」と考える風潮が強いが、自分の専門の統計学にしたって、
今までずっと無視されてきた理論がある突然「こりゃ使える」と注目されることもしょっちゅうで、何が役に立って
何が役立たないかなんて今簡単に決められることじゃないはずだ、という。


更には「例えば自分なら既存のデータで[海外文学を勉強した人は金持ちが多い]→[海外文学を勉強すれば金持ちになれる]
→[皆さん海外文学を勉強しましょう!]という結論を出すことも出来る、でもそれはやっちゃいけないことだ、
何故なら[海外文学]と[金持ち]の間に相関関係があっても、実際にはそれは因果関係では無いからだ」。ふむふむ!


そこから「言ってはいけない」繋がりで、田尻氏の「英文学者/英語教師」なる肩書きへのためらいへと話が広がったのだが、
他には山田氏が「『無用の用』って言いたくない、結局それは最後には負ける理論だと思う」という発言が、
逆に今の大学が「答え」を要求されているというプレッシャーを感じさせて胸が痛んだ。


田尻氏が自己紹介と絡めて話された現代の文学事情変遷も非常に興味深かった。彼が大学に入学したのは83年で、
世は正に浅田彰中沢新一に代表されるニューアカ・ブーム、田尻氏もデリダフーコー脱構築だ、とフランスの現代思想
かぶれて作家よりもテクスト中心の作品分析に取り組んでいたそうな。
(この辺、私もニューアカの残り香を嗅いだ世代なのでよく分かる)


構造と力―記号論を超えて

構造と力―記号論を超えて



そのニューアカの先駆者として挙げられるのが山口昌男蓮実重彦、そして先にも触れた柄谷行人で、
アカデミズムの縛りに捉われない批評、いわばアカデミック・ジャーナリズムの世界にも憧れたのだという。
しかしその後イギリス留学から日本へ戻ってみると日本の批評界は沈滞していて面白くないので、
もっと純粋に研究方面に進もうか、と先日英語でベケットに関する論文を書いて、海外で出版されたのだとか。


Samuel Beckett and the Prosthetic Body: The Organs and Senses in Modernism

Samuel Beckett and the Prosthetic Body: The Organs and Senses in Modernism


脱構築」以降の文学理論の傾向としては、政治的批評、中でもやはりポストコロニアリズムジェンダー問題が多い。
あと最近増えてきたのは「新歴史主義」、例えばある作品にポンと出てきた商品名から、その商品が出てきた時代の背景や
その商品の価値などを詳細に分析したりするのだという。でもその分析が文学解釈の広がりに貢献してるの?というと、
結構アヤシイものも多いとか。(Googleで一発検索!みたいな論文なのかしらん?)


あとこれは確か野崎氏の発言だが、最近若い世代が自分の直接体験していない「歴史的タブー」に正面から
取り組んだ作品が増えているとの指摘。例えば2006年にゴンクール賞を取ったJonathan Littell「Les Bienveillantes」。
ここではナチスの悪は勿論、ナチスに消極的・積極的に協力したフランス人の罪についても執拗に描かれているとか。
(そういえば「朗読者」のシュリンクも戦後生まれだ)日本では小説でこの種の歴史的タブーを扱おうという意識が
希薄ではないか?との指摘もあった。うーんこれは要考察。


Les Bienveillantes

Les Bienveillantes



他にも小野氏の爆笑発言とか色々あったんだけど、やっぱり書ききれない!
ともあれアカデミズムとは縁のない私にも考えさせることの多い内容でありました。
関係者にとっては今後も厳しい状況が続くんだろうなあ。