「「弱い父」ヨセフ」(竹下節子)



「世界一有名な核家族」、イエスとマリア、そしてヨセフ。
しかし「神の子」イエスや「聖母」マリアと比べると、どうしても陰が薄いお父さん役のヨセフ。
考えてみればいきなり神様に母子を押しつけられるは、突然知らない人(三賢人)が押しかけるは、
子供が狙われてる!と逃亡生活を強いられるは、果てはマリアの聖性を維持するために勝手に老年とか
童貞(!)とかの設定を付与されたりして、本人にしてみれば「何だよこれ…」と愚痴の一つも
言いたくなるところだろう。


しかしヨセフは黙々と自らの務めを果たした。実の子じゃなくてもちゃんとイエスを育てあげ、
成長した息子の苦難(磔)を見る前に安らかに死の床に着いた。
そんな普通の人・ヨセフが聖人として一般に称えられるのは、十四世紀の教会分裂により
教会の権威が失墜したあたりから。それから政治的な思惑で様々な解釈を加えられつつも、
ヨセフは正にその「普通の人」ぶりから大衆が共感できるキャラへと変わっていったのだ。


そして既存の家族意識が崩壊しつつある現代、ヨセフの与える指標は限りなく深い:

神は「実子」を犠牲に捧げて他の全ての人間を「養子」にして「父の家」に招いた。
これは、実の父子関係を重要視するユダヤ社会からの発展的離脱とも言えるだろう。
そのおかげですべての人々が神の子になれる。聖ヨセフは、その契機となった神の子イエス
わが子として遇することで重大な役割を果たした。(p.22)

ヨセフは自分の子でないイエスを受け入れ、母子を愛し、家系と保護と手職を与えた。
子供たちの生殺与奪の権を持つ家父長から、家族を愛し家庭を営む父、母のように優しく
手厚く謙虚であることを厭わない父親のモデルとなった。父親とは子や子の母から呼びかけられ、
呼び出される存在であり、それに答え、応える存在なのだ。
親子関係が曖昧どころか、はっきりと別の男と妻の間にできた子供であろうと、実の親を失ったり、
虐待を受けたりした子供であろうと、人は「新しい親子関係」を築ける。たとえ
「実の親子」でなくとも「真の親子」になれるし、ほんとうの家族になれるのだ。(p.175)


著者のキリスト教に関する幅広い知識と、非西洋人ならではの冷静な視点にはいつも感嘆させられる。
今回も日本人には馴染みの薄い聖人の変遷の歴史を通じて、現代世界の問題点までも視野に入れて
分かりやすく解説している。新刊が出るたびにチェックしてしまう書き手の一人。


●著者公式サイト:http://ha2.seikyou.ne.jp/home/bamboolavo/