「日本語が亡びるとき」(水村美苗)


図書館にて借出し:


日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で


話題作というか問題作。ついついネット上での書評をあれこれと読んでしまい、本書の趣旨や問題点も大方把握できてしまったので
じゃあ私もう現物を読まなくても良いですかあ?とも思っていたのですが、うまい具合に図書館で順番が回ってきたので
やっぱり読んでみることにしました。
…しかし実は昔からこの著者の御嬢様目線が結構苦手でして(単なるやっかみかもしれないけど)、終始わじわじーと苛立ちを
覚えながらの流し読みとなってしまいました。


私も約8年、非英語圏ドイツで英語読みをやっていましたので英語文学と非英語文学の間の非対称性というか不公平さかげん、
それに対する英語圏の無神経さと無意識的な傲慢さに対しては常日頃思うところは色々あります。ただ日本で普通に生活している分には
それを意識する機会は少ないでしょうから、それを改めて問題にしたという点に関しては本書の意義はあったと思います。


けれど続く近代文学=国民文学云々の話は柄谷行人が指摘した辺りから既に「定説」状態で(1月に聴講したサイエンス・カフェでも
それを前提に議論が進められていた)特に新鮮味も感じませんでしたし、そこから結論に至るまでの筋道も私にはほとんど共感できず。
というかそれ以前に現代の若手作家に対する無神経な物言いが生理的に受け入れられませんでした。あんな風に言われるくらいなら私、
<叡智を求める人>にならなくても良いよ…。


数あるネット上の書評で、私が共感したものを挙げておきます:
【書評】「水村美苗:日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」(評者:北條一浩) (ブックレヴューサイト・ブックジャパン)
水村美苗「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」を読む仲俣暁生氏のブログ【海難記】より)


本書の感想とはちょっと違いますが、先にも触れた「英語文学と非英語文学の間の非対称性」について私が少しだけ語ることを許されるのなら、


世の中で知るべきことは英語で記されている。
だけどもう、それだけじゃ足りないんだ。

(やや盗作)


ということでしょうか。英語を読む事によって掬い上げられるものは確かに多い。けれど掬えば掬うほど、零れ落ちていくものの多さにも
気づかざるを得ないのです。非英語圏に生まれ育った人間としてその事に気づいてしまったら、もう知らない振りは出来ないのです。
それこそが日本語への、そして日本文学への望みに繋がるのではないかと私には思えるのですが。