「わたしの名は紅」(オルハン・パムク)

「Literaturen」誌の特集以来ずっと気になっていた トルコ人作家のオルハン・パムクだが、ようやく唯一の日本語訳『わたしの名は紅(あか)』を読む機会を得た。…なにこれ、すごく面白いじゃん!ノーベル賞候補にまでなっている人の作品がこんなにワクワク読めちゃって良いの?(偏見)


わたしの名は「紅」

わたしの名は「紅」


複数の出版社が(価値は認めつつも不況のため)出版に尻込みしたらしいが、こんな傑作を出したがらなかったなんて信じられない。それって損だ!罪だ!


舞台は16世紀末のイスタンブール。話の中心となるのはスルタン向けの細密画(ミニアチュール)を手掛ける名人たち。ある写本を極秘に製作することになった絵師たちの間に不穏な気配が高まり、ついに殺人事件が起こる。その真の原因も、犯人究明への手掛りも、残された数多くの画の中に隠されている。犯人、容疑者、関係者に加えて当の死体が、さらには画の中の犬や木や、顔料の紅までもがそれぞれ勝手に喋りだす。


イスラム美術、特に細密画というのはあまり馴染みのない分野だが、作中の説明では、現代の感覚なら「絵画」というよりむしろ「工芸」に近い印象を受ける。
先人の到達した技術を忠実に再現し、その細かい作業に目を酷使するため盲目になることこそが名人と賞賛される世界。しかも真の名人は盲目になった後も、覚えた手の動きだけでやすやすと画を描く事ができる。視覚に囚われないで描く作品ほど、描かれた対象の本質を純粋に表現した傑作となりうる。
あくまで主体は「描く私」でも「描かれる私」ではなく、この世界を作ったアラーの神なのだ。


このようなメンタリティのもとに成立していた細密画師の世界に、西欧からルネッサンスの波が押し寄せてくる。遠近法を駆使した人間主体の絵画。そこで重要なのはあくまで画家の視点であり、モデルの外貌だ。
本質的に異なる、しかしそれゆえに魅力的な価値観に揺れ動く画師たち。殺されたのは極秘の命でその西洋の手法を試みたものの、後で恐ろしくなり仲間を裏切ろうとした画師の一人だった。果たして犯人は誰なのか?


よくU・エーコ薔薇の名前」と比較されるのも納得の歴史ミステリだが、「薔薇」ほど蘊蓄が煙たくないし、中世キリスト教云々よりも西洋/東洋の対立の方が、私達に馴染みのあるテーマのはずだ。細密画の事はわからなくても、例えば江戸時代に浮世絵という独自の画法を確立した歴史を思い起こせば、そこからルネッサンス絵画を見たときの衝撃や葛藤を連想するのはそれほど難しくないと思う。


まあ歴史背景については訳者から詳しい説明がなされているのでそちらを読んでもらった方が確実だが、ただもう単純に読んで楽しい!面白い!ので、とにかく機会があったら読んでみてほしい。そしてパムク氏が晴れてノーベル賞を獲ったら周りに自慢するのだ!(嘘)



【参考】
●訳者による紹介文(「あとがき」からの抜粋):藤原書店HP
http://www.fujiwara-shoten.co.jp/book/book509.htm


●「JP−TR/細密画(ミニアチュール)」
http://www.jp-tr.com/icerik/sanat/miniature.html


●「トルコからこんにちは! トルコの雑貨 ミニアチュール」
http://www.zamalek-jp.com/world/Turkey06.htm




パムク氏の最近の政治的発言とそれに伴う一連の騒動については、情報不足で私にはよく判断できない部分が多かった。(パムク氏もあとで発言内容を一部否定していたりするし)
作家の政治的言動は大抵誤解というか誤用されてしまうので、慎重にやってほしいというかあまり大っぴらにしない方が良いんじゃないかとも思うが、真面目な人ほどついつい発言してしまうものだから難しい。


●「2005-10-10  オルハン・パムックについての議論がノーベル賞発表を遅らせている(Milliyet紙)」
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/newsdata/News20051015_1092.html


●「2005-10-16  オルハン・パムックからの反論:アルメニア人大虐殺とは言っていない(Milliyet紙)」
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/newsdata/News20051016_1100.html


●「2005-10-24  オルハン・パムック、ドイツ出版協会平和賞受賞式典であいさつ(Milliyet紙)」
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/newsdata/News20051025_1158.html 



この平和賞受賞のためにフランクフルト・ブックフェアを訪れたパムク氏の姿は、ドイツのTVニュースでもよく報道されてました。いかにも都会的&知的な雰囲気のある人なのでTV映えするんだよねえ。(ビル・ゲイツ似という噂も…)